パソコンの初期に
私が初めて、新潟県弥彦温泉のホテルみのやの社長白崎豊大さん(54、当時34才) と会ったのは、およそ20年前の昭和55年ごろのことである。
ある日、新潟の白崎さんと言う人から、分厚い封筒が届いて、開封すると、なん とPET(最初に現れたパソコン)で作った、同社のマトリックス会計が現れた。
このころはどういう時代かと言うと、1979に日本でもPETが売り出され、 片や同年の一月に私は一冊目のマトリックス会計の本「安全経営してますか?」 を出している。
PETは最初のパソコンだから、8Kで29万8000円、32Kで32万円 と安いが、有効数字6桁のとても経理には使えない代物だった。
そういう初歩的 な玩具同然の機械で、しかも横8インチの狭いプリンターで、立派に縦横20コ ラムぐらいの同社のマトリックス会計を作り上げていたのである。
私が前年「安全経営してますか?」を出したときには、まだパソコンはなくて、オフコンか、NTTのレンタル端末ぐらいしかなかった。
驚いた私は、それから新潟に行って、初めて白崎氏と会ったのである。
WCCF’81へ同道
私は、パソコンつまりPETが日本に出現した79年に、初めて渡米した。
翌80年、パソコンのことをもっと良く調べたいと思って、日本情報産業新聞の NCC(全米コンピューター会議)なおツアーに参加、失望した。
NCCは、大 型汎用コンピューター主体の催しだったのだ。
81年、今度こそパソコン主体のツアーに参加したいと思って、日本マイコンク ラブのそれに参加。一人ではもったいないと思ったので、すぐ白崎さんを思い出 して電話したところ、二つ返事でOKとなった。
今にして思えば、当時から彼は 決断力抜群の人だったのだ。
このツアーはやはり収穫大で、この時の記事は「知的戦略の展開」に写真入りで 載っている。
ただ、この時、参加者は80人以上もいたのに、お互いの交流は全くなく、80 人、160個の目玉がありながら、相互交流、情報交換が全くないと言うのはも ったいない。
そこで、翌82年からは、西研自前でツアーを組織し、毎年春にWCCF見学に 行くようになった。
勿論、毎晩参加者が集まって、「今日は何が面白かったか?」 を交換した。気が付かなかった人は、翌日見に行くことが出来た。
81年のときは、自由時間に白崎氏とサンフランシスコを歩くと、彼は私と違っ て勇気があって、ケーブルカーに乗ろうと言う。彼のおかげだ、私は後にサンフ ランシスコ通になれたようなものだ。
SCTの時代
その後、1983年6月に、新潟PUC(PIPSユーザーズクラブ)の設立総 会に呼ばれたのがきっかけになって、初代会長佐々木隆氏は、大変な実行力の人 だったから、早速8月には新潟MGをやることになり、私の希望で、弥彦のホテ ルみのやさんでやってもらった。
第二回は同年11/23。この時に、博進堂の清水義晴さんを引き合わされた。
その後も数回、このホテルみのやでMGおよびMGシニアをやり、そのたびに、 すぐ裏手から一時間で登れる高さ600mの弥彦山に登り、遥か目の下に佐渡を 眺めた。
小林奈津子さんや斎藤菜穂美さんの時代である。秋田の千葉均さんも、 ここの第一回MGシニアに参加した。
そして14年後、、、
僕が、その後ホテルみのやに行ったのは、1985年ごろらしい。
白崎さんが、隣のカラオケ屋に僕を連れて行って、「氷雨」を歌った。僕は初め て聞いたが、それからその歌が大好きになった。
それから14年たったのか、、、。
今年の年賀状に、最近第三期工事をやって、右後ろに新館を建てたから、ぜひ一 度遊びに来い、と書いてあった。
ちょうど9/18~19に直江津MGがあったので、その前日に、nobさん、 tadさんを誘って、三人で押しかけた。
燕三条駅で14年ぶりに見る白崎さんは、いつの間にか頭が白くなっていたが、 精神は変わらない。
16:30にホテルみのやに着き、三人合流したところで、最近のみのやさんを見 学した。
旧館もがらり変わって明るくなっていたが、右奥に増築された新館がま た大きかった。
7Fの食堂が、びっくりするように広いのである。聞くと、最近 は、食堂でやる結婚式、DINING WEDDING、RESTAURANT WEDDINGが流行だそうであ る。
三階の厨房にはびっくりしてしまった。
nobさんの表現では、「まるで半導体工 場のようだ」という。清潔、合理的、機械化、滑らない、コンベヤ、そして僕が 感心したのは現場事務所。ここのあるじはなんと料理長なのだ。
彼はちょうど 書院でMENUかなにかをワープロしているところのようだった。
その背中のところには、各宴会場の模様が遠隔ビデオカメラで次々と写し出され ていた。これなら、サービスのタイミングもバッチリだ。
そして社長室。
ここでは何といっても、管理資料のことを書かねばならない。
白崎さんが見せてくれた資料は、100%マイツールだった。どのページも、二行目 の見覚えのある「F=」の行が、それを証明していた。
出来るだけ少ない資料で、大きなホテルというか、観光旅館が見事に運営されな ければならない。それはちょうど、くるまのダッシュボードのメーターのようで あり、現状を示し、採るべき対策を早めに示すものでなくてはならない。
そのことは、私が昔から主張していることであり、ソニーの中で戦略会計システ ムを開発してきた理由でもある。
そして最近では、京セラの稲盛会長が「実学- --経営と会計」に書いていることでもある。
それらのデータは、移動平均(MAVドン)でも処理されていたが、一方、泊り 客、日帰り客、売店売り上げ、カラオケ売り上げなどが加重平均で予測されてい る、と白崎さんがおっしゃったときには、我々三人は、お互いに眼を見合わせて しまった。
つまり、ホテルみのやの経営は、京セラの稲盛さんではないが、彼が東京のさる 電気メーカーに勤めていたときのエンジニアの理数的感覚で、理詰めで経営され ているのだ。
マイツールのデータベースは勿論、戦略会計、統計学の上にたって、彼自身のビ ジョンを実現する方向で運営され、展開されているのだ。
地域4~5番店から地域一番店に
昭和53~4年ごろ、白崎さんが東京勤めから呼び戻されたとき、当時のみのや を続けるか、廃業するかということで呼び戻されたのだそうだ。
それから彼は、世に出現したパソコンを人に先んじて購入し、「人事屋が書いた 経理の本」で経営経理が初めて分かり、経営を戦略的に考え始めた。
彼が帰ってきたころ、みのやは地域で4~5番店だったが、私がみのやを訪ねた ころには、だいたい一番店と肩を並べるようになっていたという。
「旅館の経営は、十年に一度、まとめて仕入れをするようなものなんです。」
最初は500坪だった。
最初の投資が3億円、次に僕が訪ねたころが11億円、それから十数年たって、 今回の投資が30億円という。今や2500坪。
そしてまた、考慮中の戦略もあるのだ。
みのやには、余計なものがない。
旅館の中身もすっきりしているし、なんと管理 資料まで、できるだけ簡素に限定しているのだそうだ。
でありながら、厨房にはまるで半導体工場のような金をかけ、従業員は全員一人 一台のPHSを持ち、社長自身は、iモードの携帯で出張中でもメールをやり取 りする。
みのやの最上階からは、かつての一番店、二番店が、今や駆逐艦、巡洋艦のよう に小さく見えた。
(KK西研究所・所長 西 順一郎)
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