27歳のころ
私が、社内報担当になったのは、昭和39年も暮、三菱長崎造船所勤労部管理課という、部内ではエリート部署に3年9ヶ月ほどいたときだった。それまでもっぱら労務・組合対策の下働きや、得意の会社側ビラ書きなどをやらされていたが、ある日課長に呼ばれて、隣の教育課で「長船ニュース」担当主任をやるようにと言われたときはショックだった。結婚して半年、27歳のころである。< それまでの長船ニュースは、男女四人ぐらいでやっていたのに、私ともう一人、Tという部内では(半人前)と定評のあった若手と、つまり1.5人でやれと言うのである。しかも、37年から始めた所内放送も持ったままだ。 これはタマランと私は、早速人事課の来春入所予定の新入社員の履歴書をひっくり返して、その中から、女の子Mが高校の放送部で県内でも一二の優秀な成績を上げているのを見つけ出した。日ごろはおとなしい私が、この時初めて顔色を変えて、部長にその子をくれと迫った。部長は、くれるとは言わなかったが、実際に四月に彼女が入ってくると、黙って私のところに配属してくれた。はまり役だし、有能だった。 彼女が入るまでの数ヶ月、私はTと二人だけでやらなければならなかった。しかし、従来の古手を全部他課へ移し、私にゼロから任せてくれたおかげで、仕事はやりやすかった。課長・係長とは必ずしも合わなかったが、私は人が変わったように強腰になっていた。はなはだ扱いにくい部下だったことだろう。
ノミニュケーション
さて、4人の仕事を1.5人でやるのだから、少数精鋭主義にならざるをえない。そのころ、造船所には組合員だけでも12000人ぐらいいて、長崎港の西岸に数キロ、門だけでも、立神門・向島門・飽の浦門・水の浦門の四つある。各門近辺には必ず立ち飲み屋があって、皆帰りがけに一杯引っ掛けていく。外国人の監督官らも寄って、ワーカーたちと談笑している。
その飲み屋に、私はTと一緒に毎日のように通った。飲みながら、口角泡を飛ばして連日教育だ。就業時間中も大声で議論するので、周りの人は大丈夫かと心配げにこちらを見ていた。喧嘩ではなく、真剣にやり取りしていただけなのだが、、。
Tは変わった。半年もたつと、そこらの所員より、よほど「マインド」がしっかりしてきた。もちろん、使い物になった。ただ悲しかったのは、周囲の人たちの彼を見る目がなかなか変わらなかったことである。人は変わっても、衆目の評価を変えるのは難しいものだ。
女性でも男なみに
そこへ彼女Mが加わったので、仕事はとてもスムーズになった。彼女の訓練は、私とTが二人がかりでやった。私は、女性だからお嬢さん的にやればいいとは思わない。女性でも男性でも仕事に対しては同じ。造船所の現場というと、男っぽい職場の代表的なものだが、私はそこへも、彼女一人で、ヘルメットをかぶって取材して来いと言った。びっくりはしていたが、別に嫌がりもせず、立派に取材に行ってきた。ただ、女の子だけだと、現場では男たち、荒くれたちに冷やかされはしたらしい。
全体を見る目、経営的視野を養う
社内報の仕事で、言いたいことはいくらもあるが、一番よかったのはやはり、全体を見る、上から見る、所長的立場から見る、経営的立場から見ることが出来たことだろう。当時、数字にはまったく知識がなかったが、数字抜きで経営的見地から、硬派の「経営社内報」を作った。社内報も年間けっこうな金、予算を使うのだから、それで「運動会社内報」や「結婚社内報」のような毒にも薬にもならぬ仲良し社内報は作ってはいけない、むしろ経営担当者の後押しをする社内報でなければ、と思っていた。
社内報担当者のメリットは、最トップにも仕事で堂々インタビューできることである。こういうチャンスには、普通のサラリーマンはちょっと恵まれない。
こうして、楽しい一年半であったが、「長船ニュース」を経営的社内報に方向付けたところで、それをTとM嬢に任せ、私は教育の方に軸足を移した。私が抜けても、長船ニュースはさほどレベルを落とさずに続いていた。それを見ながら、私は41年の秋に、ソニーに転社した。
ソニーでの「秘書体験」と「中小企業診断士受験体験」が、上記「社内報体験」と合わさって、会社全体を見る、上から見る「MG」の開発につながったし、また昭和45~50年の経理の勉強が、戦略会計STRAC開発や、MGのマトリックス会計開発につながっていったのである
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(KK西研究所・所長 西 順一郎)