伊勢MG

9/24は、名古屋駅は強い雨だった。新幹線から快速「みえ」に乗り換えるとき、指定席なのにどっと人が乗り込んできたのは、雨のため、停まった電車もあったかららしい。途中、四日市近辺の川も、溢れそうなくらい異常に水かさが増していた。川上の方で、かなりな雨が降ったのだろう。我々の電車も、途中停まりとまり行ったので、伊勢市到着は、17分ほど遅れた。

1615ごろ、JR伊勢市駅に到着すると、びや蔵の鈴木社長が出迎えていて、「ちょっと時間がありますから、外宮(ゲクウ)に行ってみましょうか?」と車を回してくれた。

外宮は初めて。内宮(ナイクウ)は、かつて十数年ほど前に、いちど訪ねたことがある。明治神宮を何倍にも広くしたような感じだった。足元の玉砂利がまだ先刻の雨を含んでいるらしく、靴に沁みこんでくるようで、ひやひやした。

往復していると、途中に、周りの建築とは一種異なる雰囲気の、南洋の集会場ふうの建物が一つだけあって、アレ?と驚いた。<

内宮参り

  翌日の伊勢MGは、六卓36人。なかなかの盛況で、部屋も大きな部屋に変更したと聞いた。中には、遠く大阪・広島の人もかなり混じっている。リーダーの鈴木さんが、「朝630にホテルのロビーに集まってくだされば、内宮の一つ中の普通入れないところまで、ご案内します」という。

630はきつかったが、無理して頑張る。一緒に行ったのは、女性軍団もいれて十人ぐらい。

内宮はまた一段と大きく、それこそ清浄である。祭神は天照大神。女性の太陽神だ。

最近読んだ『米内光政』にも、この伊勢神宮に参拝する話が出てくる。皇室の祖神であり、日本神道の元締めである伊勢神宮に、昔の軍人たちは、ほとんど例外なくお参りしただろうし、江戸時代にも「お伊勢まいり」は、ひろく庶民の間に広がっていた。

早朝は空気も澄み渡って、気が引き締まる。樹齢何百年という大きな杉が、そこら中に立っている。

と、私の目をとらえたのが、昨日外宮でも同じものを見かけた、一棟の大きな建物。周りの建物が「唯一神明造」などのいかにも日本らしい、神社らしい建造物の中に、それこそ唯一、この建物だけが異質なのである。

屋根はある。床はない。壁もない。ただ柱だけが、長辺で八本、短辺で三本、計18本の柱だけが屋根を支えている。

思えば、これに良く似た建物は、タヒチでも見た。パラオでも見た。(ハワイではまだ見ていない。)

この建築様式は、日本古来のものではなく、2000年前のものではない。ひょっとしたら、南洋から来たものかも知れない。年式ももっと古く、数千年前のものかもしれない。

玉垣の中で

普通は一番外の板垣の所までしか入れないのを、鈴木さんの力で、もう一つ内側の外玉垣のところまで、我々だけが入れてもらうことになった。ところが、ここが大変で、「ネクタイは持ってきましたか、スーツは持ってきましたか?」と若い担当神主から聞かれる。もちろん持ってきていない。しょうがないから、鈴木さんの友達の中村憲太郎さんから、上着を貸してもらってようやく中へ入る。

足元が、今までの玉砂利でなく、10センチ前後の磨かれた玉石である。この玉石を見ているうちに、ふとタヒチ、とくにランギロアの外洋を向いた浜を歩いたときのことを思い出した。

この玉石と先ほどの建築物とを考え合わせて、この日本最古という伊勢神宮には、ムー大陸ないし南洋渡来のポリネシア・メラネシア・ミクロネシア人たちの文化が継承されているのでは、という気が強くしてきた。

タヒチ

 私が初めて、この種の建物に入ったのは、1991年10月15~22日の第6回西研タヒチMGツアーのときである。このときのメンバーは、千葉均・妹の中川礼子・夫人の妹の井川さん・佐世保交通産業の内海社長に我々二人の計六人(プラス小俣添乗員)。

このときが初めてフアヒネ島に行ったときで、「ヘイバ・フアヒネ」という新しいリゾートホテルが島の東側に出来て、二年目ぐらいだったろうか。そこで、どこでMGをやるかだが、そのときホテルから言われたのが、実はこのスッポンポンの大きな建物だった。

図体だけは大きいが、何しろ壁がない。足元は砂である。あるのは柱と屋根だけ。島の東と言うことは、強風が当たるということだ。折からの雨で、この建物の風下で、ようやくMGをやった。

MG会場としては恵まれなかったが、ホテルの方は、夜のタヒチアン・ショーで見るからに豪傑の大男が見事な火の踊りをやってくれたので、皆大喜びだった。

さらに、食事終了後も、例によって三人くらいの小楽団がタヒチアンを演奏している。そのとき、日本の豪傑千葉均が、やおら南米渡来のランバダを絶妙な腰つきで踊り始めたので、さしもの現地人たちも度肝を抜かれて、やんやの喜びようだった。

パラオ

 青い海原に緑のみかんをごろごろと転がしたような不思議な光景を写真で見て、これは何?と思ったのが、パラオ(フィリピンの東)に行くようになったきっかけだ。タヒチは片道11時間だが、パラオはまずグアムに3時間飛んで、そこからまた乗り継いで2時間あまり。パラオのセンターはコロール島で、その西北に橋で繋がっているのがアラカベサン島。その島の西側にPPR(パラオ・パシフィック・リゾート)と言って、東急系の素晴らしいホテルがある。海に面し、プールも抜群。

そのアラカベサン島からコロールへ渡る手前の左側に、観光的にも有名な、大きな建物があり、伝統的な集会場らしい。民族の歴史的な物語が彫り物になって、壁や欄間に色づけされている。

ドクター・シノト(篠遠)

自由学園出身で、ハワイ・ビショップ博物館にいる考古学者の篠遠喜彦博士は、フアヒネの北側のマラエ(遺跡)の近くで、この種の建物を再現して、現地民たちに感謝された。(篠遠・荒俣著『楽園考古学』平凡社、1994年)日本だけにいると、二千年前の神宮というだけでびっくりするかもしれないが、南洋を旅行すると、似たようなものは各地に見つかるのである。こんなに古いものが、どういうルートかはわからないが、こうした由緒ある大神宮のなかに、内宮・外宮に一つずつ残っているというのが不思議である。

かつてムー大陸が1.2万年前あたりに太平洋で沈んだとき、ムー人たちの一部は、太平洋の周辺に散っていったと言われ、その一部が日本では熊野あたりに上陸したと何かで読んだことがある。

彼らが集会場という共同建物を残したものが、この日本最古の伊勢神宮に混入して残されたということも、あながちありうることかも知れない。

(と、ここまで書いたところに、今、伊勢の鈴木さんからファックスがあり、あの建物は「九丈殿」と言い、雨天のときの祭事や、末社の遥拝などに使われている、とあった。)

(KK西研究所・所長 西 順一郎)